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横浜地方裁判所川崎支部 昭和47年(わ)185号 判決 1980年2月01日

主文

1  被告人を懲役三年に処する。

2  未決勾留日数中、右刑期に満つるまでの分を、その刑に算入する。

理由

第一  罪となるべき事実

被告人は、かねて李成漢(当時五二才)に対し、かつて同人のため債権取立等の手伝いをしてやつたため、その謝礼金を要求したところ、同人からその所持する覚せい剤の売却処分をしてくれたならば、その際右謝礼金として金一〇万円を支払う旨言われていたが、金銭に窮していたことから、同人を脅迫してでも同人から右謝礼金として金一〇万円を提供させるか、或は覚せい剤を提供させようと企て、覚せい剤の処分先等に詳しい友人の及川和弘(当時二六才)を同行して、昭和四七年三月二一日午前八時五五分ころ、川崎市川崎区藤崎四丁目一二〇番地所在の右李方に赴き、同人方二階東側六畳間の炬燵に被告人、及川、李の三名が座り、被告人が李に対し、右金一〇万円の提供方を要求し、次いで覚せい剤の提供方を要求したが、同人から現金も覚せい剤もない等と断わられて、同人と口論しているうち、同日午前九時三〇分ころ、同人から被告人の頭部を固い物で殴打されたことに憤慨し、被告人が同人をその場に左手で押し倒し、同人を殴ろうとして左手で同人の顔面を押えつけると、同人から左親指を噛まれたため及川に援助を求めたところ、及川は被告人に加勢して所携の登山ナイフで李を突き刺そうと決意し、及川において李の確実な死亡の結果を認容し、被告人も暴行の限度で及川と意思相い通じ、及川が李の胸部、腹部、背部等を登山ナイフで一〇数回にわたつて突き刺し、間もなく同所において同人を心臓刺創による失血により死亡させて殺害したものである。

第二  証拠の標目(省略)

第三  争点に関する当裁判所の判断

一  主位的訴因に対する判断

1  本件主位的訴因は、

「被告人は、かねて、李成漢(当時五二才)に対し、かつて同人のため債権取立等の手伝をしてやつたため、その謝礼金を要求したところ、同人から、同人の所持する覚せい剤の売却処分をしてくれたならば、その際、右謝礼金として、金一〇万円を支払うと言われていたところから、同人を脅迫して、同人から右謝礼金として金一〇万円を提供させるか、または、覚せい剤を提供させようと企て、昭和四七年三月二一日午前八時五五分ころ、刃体の長さ約一二・五センチメートルの登山ナイフをジヤンパーの右ポケツトにかくして携行し、川崎市川崎区藤崎四丁目一二〇番地右李成漢方に赴き、同人方二階六畳間において、同人に対し、右金一〇万円の提供方を要求し、次いで、覚せい剤の提供方を要求したが、同人から現金も覚せい剤もない等と断わられて、同人と口論しているうち、同日午前九時ころ、同人から頭部を殴打されたことに立腹し、いきなり同人をその場に左手で押し倒し、さらに左手で同人の顔面を押えつけたところ、同人から、左親指を噛まれたため、さらに憤慨し、所携の登山ナイフで同人を殺害しようと決意し、右ナイフを右手に持ち、同人の身体にのりかかる等して、その胸部、腹部、背部等を滅多突きに一〇数回にわたつて突き刺し、間もなく同所において、同人を心臓刺創による失血により死亡させて殺害したものである。」

というのである。

2  被告人の当公判廷における陳述及び弁護人の主張

右主位的訴因につき、被告人は当公判廷において、「登山ナイフは当日の朝及川に返しましたので私は持つておりませんでした。そのあと『左親指を噛まれた』とある所まではそのとおりですが、その後の行為は覚せい剤を買うため私と一緒に行つた及川がやつたのであつて、私がやつたのではありません。私は及川がやるのを見ていました。従つて被害者が死亡したことは知つていました。」旨陳述し、弁護人も再弁論要旨において、「本件は当日の午前九時四〇分ころ、被害者に頭部を殴打され、或は手指を噛まれる等して一方的に攻撃を受けていた被告人から助けを求められた及川が激昂して所携の登山ナイフを抜き被害者を滅多刺しにしてこれを殺害したというのが真相と認められる。」旨主張している。

3  争いのない事実

判断の前提として、当事者間に争いがなく、前掲各証拠によつて認定できる事実は次のとおりである。

(1) 被告人の身上経歴

被告人は、父長内金一、母ユキエの長男として生まれ、旭川市内の中学校を卒業後、道立旭川東高等学校定時制に入学したが、中学校時代に義父小林明信が実父でないことを知つてから非行に走るようになり、昭和三七年二月恐喝、強盗致傷保護事件につき中等少年院送致となり、昭和三八年一一月強盗保護事件につき特別少年院送致となつたほか、昭和四一年一月旭川地方裁判所で監禁、同致傷、強姦致傷、傷害各罪により懲役六年に処せられ、昭和四六年一月に釧路刑務所を仮釈放で出獄し、同年二月ころ木更津市で一ヶ月間位土工をした後、一旦郷里の旭川に戻り、昭和四六年六月に叔母坂田キミを頼つて川崎に来て、同年七月末から楠原興運株式会社に鳶職として入社し、日立造船株式会社神奈川工場出張所で下請として働き、同年一〇月ころから川崎市川崎区池上新町二丁目二二番一一号新田荘に居住していた。

(2) 被告人と李成漢(以下、単に「李」)との関係

李は、昭和四六年ころ内妻渡辺政子に逃げられて困つていたので、同年一一月末ころ、かつて飲食店で知り合つた同区藤崎町二丁目一二一番地に住む坂田キミを訪れ家政婦を紹介してくれれば礼をすると頼んだところ、坂田は、甥にあたる被告人が人妻ら多くの女性と交際していることから、その一人を李の家政婦として紹介すれば被告人との関係も切れると考え、昭和四七年一月ころ、被告人にこれを話した。

被告人は、この話に関心を示し、暫くして李方に赴いて同人と初めて会い、家政婦の給料等の条件を聞き、かねてより交際のあつた同区渡田二丁目五番一三号田島荘に住む主婦田辺エミ子を紹介することにし、同年二月一〇日ころから、田辺は李方で家政婦として働き始めた。

被告人は、同年二月初めころから李方へ屡々出入りするようになり、李が日本語が殆ど読めないためそれを読んでやつたり、李が貸家をしている飲食店に販売するビールの配達をしたり、同人から逃げた内妻の居所を探し出せば取り分の一部を与えると言われて内妻の所在を探したりした。また李から同人が丸建土木株式会社に対し下請の解約による損害賠償請求債権三六〇万円を有しているので、これを取り立てて来れば一〇〇万円をやると言われて、同年二月中に会社を休んで藤波士朗と共に同社へ取立てに行つたが、同社の専務取締役中丸二郎から、李から下水道工事の下請の申し込みはあつたが断つたと事情を説明され、取立てができずに帰つたこともあつた。

これより先、被告人は昭和四六年一二月末に二重追突の交通事故を起こし、その損害賠償債務が二つのタクシー会社に対して合計金三〇万円あり、毎月各二万円、合計四万円ずつ割賦弁済をしていたが、当時の被告人の月収約一〇万円ではこの支払いが苦しく、勤務先から前借する等して何とか支払つてはきたものの、金が欲しい状況であつた折柄、被告人が田辺を家政婦として紹介した謝礼や、李のために色々手伝つたことの謝礼や実費を李に要求したけれども、李はなかなか支払わなかつた。

同年三月初めころ、被告人は田辺から、被告人が李の金を田辺に盗ませていると言つていることを聞き及んで、李に会つてこれが釈明を求め、更に前記謝礼を要求したが、李からバーで奢つてもらつただけで体よく逃げられてしまつたところ、その後も李が同じように言いふらしていると聞いて、同月一〇日ころ、李に謝礼を支払うよう強く要求すると、李は同月二五日に一〇万円支払うことを約束したが、被告人は交通事故の損害賠償金の支払が同月二二日の予定でその月は給料の手取りも少ないと予想されたので二五日まで待てない旨言うと、李は覚せい剤を売り捌く人を紹介してくれて売却の話がまとまつたら一〇万円を支払う旨約束し、被告人もかつて田辺から李方に白色の粉末が保管してあると聞き、田辺に覚せい剤かどうか調べさせたことがあつたので、李が覚せい剤を所持していると考え、これを承知した。

(3) 被告人と及川和弘との関係

被告人は、前刑で釧路刑務所に服役中の昭和四四年ころ、同刑務所で服役していた及川和弘(以下、単に「及川」)と知り合い、及川がかつて麻薬を取り扱つていたと聞いていたので、李が覚せい剤を持つているのを知つてから、当時及川が勤務していた東京都豊島区池袋所在のサロンバー「ロマンス交差点」及び「夜の診察室」に電話したり直接訪問する等して覚せい剤の売却について相談をもちかけ、売却に成功すれば覚せい剤の一部を及川に譲つて礼をすると話していたところ、及川は覚せい剤の処分先を知つているので売却してやる旨約束した。被告人は、李が所持していると思われる覚せい剤を、当初は田辺に李方から持ち出させようとしたものの、田辺が覚せい剤を見つけ出せなかつたため、結局李に及川を紹介して覚せい剤の売却の話を成立させ謝礼金一〇万円を李から貰おうと考えた。

(4) 本件直前までの経緯

被告人は、昭和四七年三月二〇日午後一〇時ころ及川に電話し、これから川崎へ覚せい剤を取りに行く旨話したところ、及川が勤務中なので勤務が終つてから会うことになり、翌二一日午前一時ころ池袋の喫茶店美奈(以下「美奈」)で及川と落合い、及川が高橋という高利貸から借りて使つていた黒塗りの乗用車に同乗して及川とともに川崎に向かい、途中、車内で、李を脅迫してでも謝礼金を出させるか覚せい剤を提供させようと考え、及川がバツグに入れて携帯していた登山ナイフ(以下「本件兇器」)を借り受け、同日午前二時三〇分ころ川崎市川崎区渡田向町二七番五号の加瀬みよ子方に着き、加瀬方で及川と一緒にウイスキーを少し飲んだ後、及川を残して一人で加瀬方を出て、新田荘の自室に戻つて就寝し、同日午前八時ころ自室を出て加瀬方へ行き、及川と及川の車で李方前路上まで行つた。

(5) 李成漢の死亡

李成漢は、昭和四七年三月二一日午前九時三〇分ころ、川崎市川崎区藤崎町四丁目一二〇番地の同人方において、何者かに尖鋭なる刃器でその胸部、腹部、背部等を滅多刺しにされ、そのころ同所において心臓刺創により失血死した。

4  争点の整理

(1) 実行行為者について

既に明らかなように、検察官の主位的訴因の主張は、犯行当日李方の屋内に入つたのは被告人のみであり、被告人が登山ナイフで李に刺撃を加え殺害したもので、及川は李方前で被告人を車から降ろし、車内で暫く待つた後池袋に戻つているのであつて、殺人の実行行為者は被告人で、被告人の単独犯行であるというのであり、弁護人の主張は、及川も被告人とともに李方に赴き、登山ナイフで李に刺撃を加えて殺害したのは及川であつて被告人ではない、というのである。

ここで注意すべきことは、本件では被告人が、李に対して登山ナイフで刺撃が加えられた当時李方に居たことは争いがなく、また客観的証拠からも優に認定できることであり、本件の焦点は殺人の実行行為者が誰であるかということであつて、後記の如く証拠検討に当つては、被告人が現場に存在したことに関する証拠と、被告人が殺人の実行行為者であるかどうかに関する証拠とは厳密に区別する必要がある。

(2) 証拠の対立

被告人が殺人の実行行為者であるという検察官の主張を裏付ける二つの有力な証拠として、及川の捜査段階及び公判廷における供述と、被告人の捜査段階の供述調書が存在する。

及川は、第二回、第二〇回、第二一回、第四二回公判において証人として供述し、その捜査段階の供述も併せると、その供述の大要は次のとおりである。

即ち、及川は本件当日午前九時ころ、被告人を及川の車に同乗させて加瀬方を出発し、被告人の指示した所で車を停車させ、車から降りて李方に行つた被告人を車内で待つたが、当日引越の予定であり、五、六分待つても被告人が来ないので、一人で車を運転して出発し、首都高速道路を通つて池袋に戻り、午前一〇時三〇分か五〇分ころ池袋の喫茶店「美奈」で妻及川直美と会つた後、長谷川健一郎から小切手で三万円借用して不動産屋に行つて契約書を作成し、午後から引越をしたのであつて、及川は李方へ行つておらず、本件兇器も本件後に被告人から返してもらつた、というのである。

被告人の捜査段階の供述調書はこれを要するに、被告人は李方へ通ずる路地の前路上で及川と別れ、一人で李方へ赴いて二階東側六畳間に上がり、李と謝礼金や覚せい剤のことをめぐつて口論した後、被告人が主位的訴因に記載した経過の如く、本件兇器で李を滅多突きにして殺害した旨が記載されている。

被告人は、公判廷において、この供述を翻えし、要旨次のような供述をしている。

即ち、被告人は李方へ通ずる路地の前の路上で、及川から、被告人は酔つているから本件兇器を返すよう促されて、これを及川に返した後、及川とともに李方二階東側六畳間に上がり、被告人が李と口論となり、被告人が李に左手親指を噛まれたため、及川に助けを求めたところ、及川は所携の本件兇器で李を滅多突きにしたもので、その後も及川は被告人と行動を共にし、本件後及川の車で二人で池袋へ戻り、ホテル古都で入浴した後及川と別れたもので、本件殺人の実行行為者は及川である、というのである。

そこで以下、及川の捜査段階及び公判廷における供述並びに被告人の捜査段階における供述と、被告人の公判廷における供述とのどちらを信用すべきかを検討することとする。

5  客観的状況の検討

(1) 犯行現場の状況

イ 李の死体の位置、状況

司法警察員作成の実況見分調書及び検証調書によれば、李は李方二階東側六畳間において、頭部を南南西側に向け、脚部を北々東にして仰臥位の状態で畳の上に死体となつており、その上半身はカーデイガンに腹巻をし、下半身はズボン下のままで、着衣には血痕が付着し、胸部、腹部、背部等に後記の多数の創傷が存在することが認められる。

ロ 血痕、指紋

李方に遺された血痕については、川崎署長作成の各検査依頼書、司法巡査作成の捜査報告書(昭和四七年四月二二日付)、神奈川県警察本部鑑識課長作成の各検査結果回答書、石黒及び高野省吾作成の各電話聴取の書面、第二一回公判調書中の証人及川和弘の供述記載部分によれば、李方階段の下から六段目の横板に、被告人の血液型と同じ型のOMN型の血痕が付着しており、李の血液型はON型で、及川の血液型はA型であることが認められ、これは被告人が本件当時李方に居て受傷し出血していたことを裏付けている。

もつとも、本件全証拠によつても及川が李方で出血したという事実はないと認められるから、及川の血痕が李方から発見されないのは当然であつて、被告人と同じ血液型の血痕が発見されたことも、被告人が殺人の実行行為者であるか否かの検討の際には尚慎重に吟味する必要はある。

次に指紋の点については、司法警察員作成の検証調書によれば、李方で検証の際に指紋を採取していると思われるが、被告人や及川の指紋が検出されたという証拠はない。

ハ 畳の刺穴

前掲実況見分調書によれば、李の死体の右頸部があつた部分の畳の上に長さ一センチ四ミリメートルの刺穴が存在することが認められ、右刺穴は被告人の検察官に対する供述調書(昭和四七年五月一日付)の信憑性に関連するので後述する。

ニ 乳液(ローシヨン)の瓶

前掲実況見分調書によれば、李の死体の左前腕付近の畳上に蓋の外れた乳液の瓶があり内容物が流出していたことが認められるが、この点に関しては被告人が第五回公判期日において、及川が李の左手か右手にしていた指輪をはずすのに乳液をつけた旨供述しており、捜査段階においては、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四七年五月一日付)において被告人の左親指を李に噛まれて付根の所から血がにじみ出していたので、鏡台にあつたたしか黒色の細長い瓶に入つたたしか黄色の乳液を出してその指に塗りつけました旨供述している(瓶の色及び乳液の色は実況見分では白色であるが)ように、その供述内容に変遷があり、やはり信憑性の判断に影響してくる。

ホ 腕時計バンド取付用バネ

前掲実況見分調書及び司法警察員作成の捜査報告書(昭和四七年四月二二日付)によれば、李の死体付近から腕時計バンド取付用バネが発見されており、これが被告人の時計のものであることは争いがなく、前掲証拠によつて充分認定できるところであるが、この点も被告人が本件現場にいて、李と何らかの形で揉み合つたことを示すものの、被告人を殺人の実行行為者と認定するには慎重を要する。

(2) 本件兇器

イ 種類

本件兇器は、登山ナイフであることは明らかであるが、後述するように、事件後及川がナイフも鞘も処分し、発見されていないため証拠に提出されていない。

昭和五〇年押第七一号の1で証拠に提出採用されている登山ナイフは、及川が本件で使用された登山ナイフを昭和四七年二月にアメ横の中田商店で買つた旨供述していることに基づき、及川の供述するものと同型のものを警察官が購入して証拠物として提出したものである。及川は、本件兇器(即ち及川の供述によれば長内に渡した兇器)が本件証拠物と同型のものである旨供述しているが、被告人は捜査段階及び公判廷を通じて、本件兇器と証拠物は同型でないと思う旨供述しており、刃の形状は似ているが証拠物には鍔が片側にしかないが本件兇器には両側にあつたこと、証拠物の鞘は固いが、本件兇器の鞘は革製であつたと思うこと等を指摘している。

本件兇器は、及川が前記中田商店で購入し、少なくとも犯行当日まではバツグに入れて携行していたこと、及川の本件兇器に関する記憶はそのネーム等についても詳細であること、中田商店で及川の供述するものと同型の登山ナイフを販売していたが、被告人の供述するような型の物は販売していなかつたことに照らし、証拠物と同型のものであると認定するのが合理的であり、この点に関する被告人の供述は採用しない。

ロ 形状

被告人は、当公判廷において、本件兇器は鞘が固く、李に左手親指を噛まれた状態で片手で抜けるものではないと供述しているので、次に本件兇器の形状、特に鞘の抜け具合を検討する。

本件兇器が証拠物の登山ナイフと同型のものであることは既に認定したので、証拠物の形状を観察すると、証拠物は刃体の長さ約一四センチメートルの片刃の登山ナイフで、刃のある側片方に突き出た鍔があり、鞘は金属製と思われる硬質のもので、鞘にナイフを納めた状態で柄を固定する皮製バンドが鞘に取り付けられている。鞘の内側に金属片のバネがあつてナイフの刃を押える役割を果たしており、その押える力は、前記皮製バンドをはずした状態で鞘に納めたナイフの柄を握つて軽く振つても鞘が外れない程であるが、これを強く振つた場合には少しずつ鞘がずれて外れて行くものである。

もつとも、本件兇器については、及川は昭和四七年五月四日付の司法警察員に対する供述調書において、本件兇器は鞘の中にあるスプリングの鋼が緩くなつていたのを、長内に渡す二日位前に店で直すために持つていき小さなドライバーを使つて鋼を曲げて簡単に抜けないように直したので、片手で鞘、もう一方の手で柄を持つて引かなければ刃が抜けないようにぴしつとはまる状態になつていたと供述し、同月五日付の検察官に対する供述調書においては、本件兇器は買つた当初から鞘の中についているバネが弱くて鞘を上の方にすると中味が落ちる位だつたので、被告人に貸す二、三日前に店の方へ持つて来て鞘のバネをドライバーで押し上げておいたが、まだしまりが悪く刃の方が鞘から一寸出るとその後はスツと抜けるような状態で、証拠物よりももつと鞘が抜けやすくなつていた旨供述しており、本件兇器が証拠物以上に鞘が抜けにくいものであつたかどうかは定かではない。しかも、本件当時、前記革バンドで柄が固定されていたか否かも判然としないのであるから、被告人が捜査段階で供述しているように、鞘がついていたがポケツトから取り出す時にひとりでに抜けるようなことがありうるのか、或は公判廷で供述するように片手で鞘から抜けるものでないかは、断定できない。

また、被告人は公判廷で本件兇器はジヤンパーのポケツトに入らない旨供述しているが、証拠物はナイフを鞘に納めた状態で全体の長さが約二五・五センチメートルであり、被告人が当時着用していたジヤンパーが証拠に出されていないため、そのポケツトの大きさは不明であり、本件兇器が右ジヤンパーのポケツトに入るものか否かも断定できない。

ハ 携帯者の変遷

本件兇器の携帯者がどう変遷したかを辿ると、前掲各証拠によれば、本件兇器は昭和四七年二月に及川がアメ横の中田商店で購入し、バツグに入れて携帯していたが、同年三月二一日午前一時ころ被告人と及川が池袋から川崎へ向かう車内で及川が被告人に渡し、同日午前二時ころ被告人が加瀬方を出る際にズボンのベルトに挟むように持つていたことが認められる。この後は、被告人と及川の公判廷の各供述が別れており、被告人は本件直前に李方前で車を停めてから及川に返しており、その後は及川が携帯していた旨供述するのに対し、及川はこれを否定し、被告人から本件兇器を返してもらつたのは同月二二日午前一時ころ池袋付近で被告人を車に乗せた車内でのことである旨供述し、被告人の捜査段階の供述もこれに沿う内容となつている。

ニ 本件兇器の事後処分

本件兇器(鞘も含む)の事後の処分に関する証拠は及川の供述が存在するだけであるが、及川は捜査段階及び当公判廷において、昭和四七年三月二二日午前二時三〇分ころ護国寺インターチエンジから車で首都高速道路に入り、高速道路が隅田川の上を渡つている場所で車を停め、鞘を川の中に投げ棄て、ナイフも投げ棄てようと思い欄干に当てて刃の根元の方から「く」の字型に曲げたがその場で棄てず、午前三時ころ夜の診察室の前で石で叩いて丸く変型させポリバケツ内に投棄した旨供述しており、捜査官が及川の供述に基いて各投棄場所を捜索したが、ナイフ、鞘とも発見されていない。

及川の右処分状況は、恰も及川が殺人犯人であるかのように念の入つたものであるが、この点については及川は、ナイフや鞘を棄てたのは、被告人が事件を起こす過程までは共犯のような形だし、処分するなら徹底的にやろうと思つた旨当公判廷で供述しており、右供述もあながち虚偽とは断じ難く、本件兇器の事後処分に関しても決め手はない。

(3) 被害者李の受傷状況

医学博士伊藤順通作成の鑑定書によれば、李の死体には、単なる表皮剥脱を別にしても、前額右髪際隅部切創、前頸部胸骨上〓部刺創、左側頸部刺創、項部髪際部刺創、項部刺切創、右乳様突起部刺切創、項部正中線右外側部刺切創、左上胸部第二肋間部刺創、右上胸部第二肋間部刺創、右上胸部第三肋間部刺創、右上胸部第三肋間部刺創(致命傷)、心〓部刺創、左肋骨弓部乳線上部刺創、左側腹部肋骨弓部刺切創、左肩胛部刺創、左後腋〓部刺創、左後腋〓部刺創、左拇指尖端部弁状切創、左中指手掌側末節部切創、左環指手掌側末節部切創、右示指手掌側末節部切創、右中指手掌側中節部弁状切創、右環指手掌側中節部弁状切創、右小指手掌側末節部切創、左大腿後面下部刺創がそれぞれ存在し、創角の尖鋭又は鈍なる方向が各創によつて一定せず、結局、刃を色々な向きにして尖鋭な刃器で滅多突きにされたものと認められる。

(4) 被告人の受傷状況

司法警察員作成の「殺人被疑者の犯行中の受傷跡の診察結果についての報告」と題する書面(添付の診断書を含む)及び司法警察員作成の写真撮影報告書(昭和四七年四月二八日付)によれば、昭和四七年四月二一日に診断した時点で、被告人の左拇指中節に米粒大の瘢痕が認められ、頭頂部正中線より右よりに七ミリメートルの瘢痕と、左側に約四ミリメートルの瘢痕が認められ、被告人が捜査段階及び当公判廷で供述するように、李に堅いもので頭部を二回殴打されたことと左手親指を〓まれたことを裏付けている。しかしながら、この点も被告人が本件当時現場に居たことを証明する有力な資と評することはできても、殺人の実行行為者がどちらであるかの決め手とすることはできない。

(5) 被告人の着衣

イ 種類、着脱、洗濯

前掲各証拠によれば、被告人が本件当時李方へ赴いた際の着衣は、証拠が区区ではあるが、ジーパンに白つぽいハイネツクのシヤツ、茶系統のジヤンパーと認めるのを相当とするところ、被告人は本件後、一旦自室に戻り、右ジーパンを白つぽいズボンに、ハイネツクシヤツをシヤツ(色は判然としない。)に、茶系統のジヤンパーを白つぽいジヤンパーに着換え、当日午後五時四五分ころ村上千恵子のアパートへ赴き、同女にジーパンとハイネツクシヤツの洗濯をしてもらい、これらをビニール袋に入れて持ち帰つたことが認められる。

ロ 血痕付着部位

右のハイネツクシヤツには、村上千恵子が洗濯する時点で血痕が付着していたことは明らかであるが、同女の供述は、当初、左袖口に直径約五センチメートル大の血痕が付着していた、という内容から、実際のところは左であつたか右であつたかは判らないという内容に変遷している。右ハイネツクシヤツは、被告人が本件当時着用していたものであるが、その左袖口に血痕が付着することは、被告人が李に左手親指を噛まれており自己の出血により付着する場合もありうるし、李は顔面にも受傷しているため李の出血により付着する場合もありうることであつて、これは被告人が殺人の実行行為者であると断ずる資とはならない。

もつとも被告人は、昭和四七年五月七日付の検察官に対する供述調書において、自室で着換えたときにハイネツクシヤツの右袖口にも血痕が付着していた旨供述しているが、公判廷(第三四回)においてはシヤツの襟の所辺りに飛んだ血が少しついていたと供述を変えており、ハイネツクシヤツが証拠として提出されていないため、右事実を認めるには十分ではない。茶系統のジヤンパーについては、被告人は昭和四七年五月一日付の検察官に対する供述調書において、右袖の所に血がべつとり付いており、肩の付近にはこすりつけた血がついており、右胸の部分にも同様に血が付いていた旨供述しているが、右ジヤンパーを、被告人は捜査段階では自室で着換えて出たあと近くのポリバケツの中に捨てた旨供述しているが発見されておらず、公判廷においては、被告人は着換えたあと右ジヤンパーを紙袋に入れて持ち出し、当日の昼ころ池袋のパチンコ店大番で藤波士朗の内妻石川洋子に処分を依頼した旨供述しているが、石川洋子は公判廷において、同日昼ころ大番の店の中か外で被告人から紙袋を受けとりアパートへ帰つて見たらズボンとシヤツかオープンシヤツの二点であつた旨供述しており、紙袋の内容物が一致しないため、同女が胸の辺から右袖の方にかけて血が付いていたというシヤツ又はオープンシヤツが被告人のジヤンパー又はハイネツクシヤツであると断ずるのは困難である。

(6) 及川の着衣

イ 種類、着脱

加瀬みよ子の司法警察員に対する各供述調書によれば、及川が本件当日加瀬方に赴いた際の及川の服装は黒つぽい背広上衣、黄色つぽいネクタイ、クリーム色ズボンであつたと認められるが、加瀬方を出る際にも同じ服装であつたか否かについては、及川が加瀬方で着換えた旨の供述をあながち否定できないため、結局判然としない。

ロ 血痕付着の有無

及川の着衣に血痕が付着していたという証拠は、被告人の公判廷の供述以外にはない。

(7) 李方から持ち出したという衣類

被告人は当公判廷において、李方を出る際に二階東側六畳間にあつた鼠色の作業ズボンと作業ジヤンパーを、当時着ていた物の上に重ねて着て出て来、右作業ズボンと作業ジヤンパーは紙袋に入れて藤波士朗の内妻の石川洋子に渡した旨供述しており、石川洋子は公判廷で被告人から紙袋を受け取つたことを認めているものの、前述のように紙袋の内容物に被告人の供述とくい違いがあり、李の長男の李元寿が所在不明で証人尋問できないため李の被服の持ち出されたものがあるか否か、あるとしてその種類品質等の詳細は不明であるうえ、紙袋の内容物は石川が処分してしまつたため確かめようがない。

また、被告人は公判廷において、及川が李方を出る際に、李方にあつた茶色背広上下を自分の服の上に重ね着して出て来、これは先の作業ジヤンパー及び作業ズボンと共に紙袋に入れて石川洋子に手渡した旨供述しているところ、石川は紙袋の内容物について矢張りこれに沿う供述をしておらず、李の被服に関する詳細不明のため、この点も確かめようはない。

6  及川および被告人の足取り

(1) 犯行時刻の確定

及川および被告人の足取りを考察し、特に及川のアリバイの成否を検討するについては、本件犯行時刻を確定しておく必要がある。

本件犯行時刻ころ、本件現場付近に居合わせた平田長三、平田順、会田芳浩、金福今の各司法警察員に対する各供述調書を総合すると、本件当日の午前九時三〇分ころから九時四〇分ころの間に、李方付近から「ギヤー。」又は「アーアー。」という異様な声がしたことが認められ、これが李の悲鳴か被告人のそれかは不明であるが、右の時間帯ころに本件犯行がなされたと確定できる。

(2) 及川の足取り

イ 本件前

前掲各証拠によれば、本件当日及川が被告人と共に加瀬方を出た時刻は、午前八時三〇分から午前九時ころの間であつたと認められ、及川の運転する車で李方へ入る路地の前の路上まで行つたことは既に認定したとおりである。

ロ アリバイの成否

及川の捜査段階及び公判廷の供述の要旨は、及川は李方へ入る路地の前の路上で五、六分車を停めて待つた後、当日の午後引越の予定で、長谷川健一郎から借金する必要もあつたので、池袋へ戻るため車で出発して高速道路の入口を探したが初めての所なのでなかなか見つからず川崎市内をぐるぐる回つた後高速道路の入口を見つけ、そこで自宅に電話して妻及川直美に「美奈」へ来るように連絡し、高速道路を通つて池袋へ行き、午前一〇時三〇分ころ池袋の駐車場に車を預けて午前一〇時五〇分ころ「美奈」に到着したところ、直美は既に来ていたが、長谷川健一郎は来ていなかつたので、同人のアパートに電話したら同人はすぐ来たので同人から三万円借りて、正栄商事不動産に行き、転居予定先のアパート和荘の契約金の残金を払つて賃貸借契約書を作成し、徒歩で和荘に行つたところ、丸井からの荷物が午後一時一寸過ぎに届いた、というものである。

右の供述に関連して、及川が直美に架電した時刻及び及川が「美奈」に到着した時刻については及川直美の公判廷における供述が存在し、直美は、当日午前九時ころ及川から電話があり、「美奈」で待てというので午前一〇時か一〇時過ぎに「美奈」へ着いたが及川はまだ来ておらず、一〇分か二〇分待つたら及川が来て、及川が長谷川健一郎に電話したら、そんなに待たずにすぐ長谷川健一郎が来た旨供述している。この直美の供述は、及川の供述とその時刻にある程度の相違はあるものの、その内容が信頼でき、特に時刻が正確であれば及川の供述を裏付け、及川のアリバイをも成立させる重要な証拠である。及川直美は、公判廷で証言した時点では既に及川と別居しており、その供述は一見証明力が高いかのようであるが、反面、及川との間には長男をもうけていて及川に対する感情の流れは微妙であり、前記李方から聞こえた悲鳴の時刻との関連で直美の供述は時刻がいずれも早すぎるのではないかという疑問があるのに加えて、長谷川健一郎の供述との関連をも検討しておく必要がある。

長谷川健一郎は、昭和四七年三月二八日付及び同年五月一二日付各司法警察員に対する供述調書において、及川に金を貸す約束で当日正午ころ「美奈」で待ち合わせる約束だつたところ、当日の正午ころと思う時刻に及川から「美奈」で待つているという電話が自宅にあり、自宅から五分位の「美奈」へ行き、午後零時か零時半ころ及川に額面三万円の小切手を渡した旨供述していたが、公判廷において、検察官からの尋問に答え、及川から電話があつたのは午前一一時ころだつた旨供述を変更している。

前者の司法警察員に対する供述調書は、及川と待ち合わせた時刻と、実際に電話を受けて「美奈」へ行つた時刻とを混同している可能性もないではないが、特に昭和四七年三月二八日付の分は本件後一週間しかたつていない時点での供述であり、その信憑性は高いと言うべきである。これに引き換え、後者の公判廷における供述は、検察官による昭和四八年六月一一日付の長谷川健一郎の司法警察員に対する供述調書(不同意になつている。)によると思われる誘導に対する応答であるうえ、被告人が公判廷で及川とホテル古都へ行つたと供述し及川のアリバイが問題となり始めたのは第五回公判(昭和四八年四月一七日)以降であり、長谷川健一郎は昭和四八年五月一二日にはそれ以前の供述を維持していたのを、同年六月一一日付の取調になつて突然変更したものと推定され、同年六月一一日付の調書の存在自体が、捜査官による誘導や作為があつたのではないかという疑いを禁じ得ないものである。また正栄商事不動産の関係では及川が当日来た時刻は明らかではないが(証人佐々木幸雄が午前一一時ころと供述しているのは及川の供述内容である。)、都築修一の司法警察員に対する供述調書によれば、丸井成増店からの荷物が及川の転居先の和荘に到着したのは当日の午後二時ころと認められ、斉藤常八の司法巡査に対する供述調書によれば和荘は東京都豊島区池袋二丁目一〇六二番地に存在し「美奈」近くであり、仮に及川が長谷川健一郎と会つた時刻が正午ころとしてもその後の行動に時間的不都合は生じない。

そうすると、長谷川健一郎が及川から電話を受けて「美奈」で会つた時刻は当日の正午ころと認定するのが合理的であり、或は少なくともその可能性は否定できないと認められる。そうなると、前記及川直美の供述する時刻は、これを直ちに信頼する訳にはいかなくなつてくるのである。

(3) 被告人の足取り

イ 被告人の捜査段階での供述

被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書においては、被告人は本件後の足取りについて、本件後李方を出たが及川が待つていなかつたので徒歩で新田荘の自室に戻り、着換えをした後徒歩で坂田キミ方へ行き、その後徒歩で田辺方に行き、そこに一〇分位いてからバスで川崎駅へ出て、国電で池袋へ行つて、駅から歩いて五分位の所にある大番パチンコ店へ行つた旨供述している。

ロ 被告人の公判廷での供述

被告人は、本件後の足取りについては、公判廷では、被告人は本件後及川の運転する車で自室に戻り、自分だけ着換えをした後、及川の車で田辺方に赴き、及川は車内で待ち、被告人だけ田辺方に入り、一〇分か一五分してからそこを出て、及川の運転する車で横浜寄りのインターチエンジから首都高速道路に入り、池袋で高速道路から降りて駐車場に車を置いて歩き、途中商店街で靴下二足と及川の下着を買つて午前一一時ころ及川の提案で血を流すためホテル「古都」(以下「古都」)に入り、被告人は「古都」の従業員から赤チンかヨーチンを借りて左親指の傷の手当をし、及川、被告人の順に入浴して正午ころ「古都」を出た旨供述している。

ハ 「古都」

右の被告人の二つの供述のうち、及川が被告人に同行していたか否かに次いで、最も大きな供述の変更は「古都」に立ち寄つたという部分であるので、次にこの点を検討する。

沢田重子の公判廷における供述によれば、同女は昭和四七年三月か四月から「古都」の従業員をしており、従業員になつてから一ケ月位たつたころ、「古都」に昼間二〇才代の男二人が来たことがあり、二階の表側の部屋に案内し、うち一人の男に薬を貸し、一人については記憶があり加瀬みよ子の司法警察員に対する供述調書添付の及川の写真に似ていたことが認められる。沢田重子の右供述は、被告人を特定して「古都」に本件当日来たことを明言する供述ではないが、その内容は具体的で、オープンして間もない「古都」に勤めてから男二人連れの客を案内したのは初めてであつたということから記憶が鮮明であり、被告人から質問されてパートの掃除婦について記憶を換起する等被告人の供述を相当裏付けるものであつて、及川は第二一回公判で、「古都」へは二回しか行つたことがなく、男と行つたことはないと否定しているものの、沢田の供述を覆えすのは至難である。

また裁判所の検証調書(昭和四九年一月九日実施分)によれば、「古都」の二〇一号室からはサロンバー「夜の診察室」が見え、帳場には薬箱があること等も被告人の公判廷の供述を裏付けている。

さらに、「古都」における及川の入浴の事実の裏付けとして、被告人は公判廷において、及川は左大腿部にしやれこうべと蛇のすじぼりの入墨をしていたが、「古都」で見たら蛇に赤の色が入れてあり、刑務所出所後に手を入れたことがわかつた旨供述しているところ、及川は公判廷において、左大腿部の入墨は昭和四〇年ころ松本少年刑務所に入所中に入れたもので、だいだい色の部分も煉瓦の粉で着色しており、その後は手を加えていないと供述しているが、証人佐藤昌助の公判廷の供述、及川の公判廷の供述によれば、及川が釧路刑務所出所後右肩の龍の入墨をしたことが認められ、左大腿部の蛇に着色した可能性もないとはいえない。加えて被告人は「古都」で入浴した際に及川が被告人らの年代には珍しくブリーフをはかずに柄物のパンツをはいているのでかわつた物をはいているなと思つた旨第五回公判廷で供述しているところ、第四二回公判で当裁判所が及川の左大腿部の入墨を検証した際にも及川は赤い縞模様の柄物パンツを着用しており、及川が柄物のパンツを着用することがあるという事実は、被告人の供述を巧むことなく一部裏付けたといわざるをえない。

(4) 及川のアリバイ成立の時間的可能性

イ 時刻の確定

被告人が公判廷で供述するように、及川が本件当時から「古都」まで被告人と同行していたとすると、及川にアリバイが成立するという検察官の主張が問題となるので、これについて、以下考察する。

本件犯行時刻が午前九時三〇分から四〇分の間(犯行所要時間はその前後を含むことは勿論である。)であることは先に認定したが、被告人が本件直後川崎にいた最も遅い時刻は、田辺エミ子の司法警察員(昭和四七年三月二二日付)及び検察官に対する各供述調書、坂井幸司郎作成の「放送番組についてお問い合わせの件」と題する書面によれば、午前一〇時二五分以後と認められ、坂田キミの同日付司法警察員に対する供述調書によれば被告人が当日午前一〇時三〇分ころ坂田方に短時間立ち寄つたことが認められ、被告人が早くとも午前一〇時二五分までは川崎にいたことは明らかである。

また、及川が長谷川健一郎と「美奈」で会つたのは当日正午ころと認められることは前述の如くであるが、これより前に「美奈」へ到着し、直美に会つていなければならないことになり、長谷川健一郎と会つた時刻にある程度幅があるにしても、及川は遅くとも正午には池袋にいなければならないことになり、午前一〇時二五分から正午までの間に被告人が公判廷で供述するような行動がとりえたかが問題となる。

ロ 位置関係、所要時間

司法警察員作成の捜査報告書(昭和四八年一二月一一日付)及び裁判所の各検証調書によれば、田辺方から首都高速道路浜川崎入口までは約二・四キロメートル、首都高速道路浜川崎入口から北池袋出口までは約三二キロメートル、北池袋出口から「古都」までは約二キロメートル、「古都」から「美奈」までは約四〇メートルであることが認められる。

このうち、特に首都高速道路浜川崎入口から北池袋出口までの車での所要時間が問題となるが、司法警察員の捜査の場合の実験で五九分、裁判所の検証の場合の実験で一時間四一分であつたが、右はいずれも渋滞状況により変動するものであるから、本件当時も多少渋滞があつたとしても、五九分より短い場合もありうることを承認しなければならない。

そうすると、仮に田辺方から浜川崎入口までを捜査の時と同じとして五分とし、浜川崎入口から北池袋出口を五九分以下とし、北池袋出口から「古都」までを捜査時と同じ九分(この部分は、被告人の供述によれば駐車場に車を置いて途中から歩き、買い物をするためもう少し余計にかかる可能性が大であるが。)とし、「古都」から「美奈」までを無視できる時間とした場合、田辺方から合計七三分となり、午前一〇時二五分から正午までの九五分間からこれを差引くと二二分残ることになり、これが首都高速の渋滞の程度によつて短くなることもありうることを考慮すると、「古都」で入浴する時間を入れても、及川が正午ころには「美奈」に到着することがあり得ないことではないことになる。

もつとも、被告人は当初公判廷で「古都」にいた時間を一時間位と供述していたのを、後に変更して四〇分から五〇分であつたと供述しており、いずれにしても「古都」で四〇分から五〇分の時間がありうるか疑問は残るが、前述のように首都高速の所要時間の変動を考えると、二人が順次入浴する位の時間がなかつたとは断定できない。

結局のところ、被告人が公判廷で供述するような場合が時間的にあり得ないと断定することはできず、及川にアリバイがあるから被告人の単独犯行であると決めつけるのは甚だしく困難である。

7  犯行の動機の有無、程度

(1) 被告人の場合

イ 李との関係

被告人と李との関係は先に認定したとおりであり、被告人は李から謝礼金一〇万円をもらうか或は覚せい剤を処分してくれる者を紹介して売却代金から一〇万円の支払を受けたいと考えていたが、李が謝礼金を払おうとしないばかりか不誠実な態度で覚せい剤はないと言つたのに対し、被告人が相当程度憤慨し、李に立ち向かおうとしたところ李から堅い物でいきなり頭部を二回殴打され、被告人が左手で李の顔面を押えたところ李に噛まれてしまつたこと等に鑑みると、被告人が本件殺人の実行行為をする動機は充分にあつたと認められる。また、藤波士朗の公判廷における供述によれば、本件の前日か前々日にバー「ミドリ」で被告人と会つた際、被告人が川崎に頭に来る者がいるから何か道具があつたら貸してくれと藤波に頼んだことが認められ、更に本件前に及川と共に池袋から川崎へ向かう車内で及川からナイフを受け取つていること等も、被告人が李に対して殺人の実行行為をする動機があることを窺わせる。

ロ 金銭問題

被告人の昭和四七年四月三〇日付検察官に対する供述調書によれば、被告人は昭和四六年一二月二八日に二重追突の交通事故を起こし、相手のひまわり交通と川崎タクシーに車両修理代金合計三〇万円を、各タクシー会社に毎月二万円ずつ毎月二三日までに損害賠償として支払うことを約しており、事故後は手取り約一〇万円の月収では苦しく会社から前借り等をしていたが、昭和四七年三月二二日の給料日にも前借のため手取りが少ない予定であり、弁償金を支払うためには何とか李から覚せい剤の処分代金のうち一〇万円を謝礼としてもらいたいと思つていたことが認められ、被告人が当時金銭に窮し、李の覚せい剤の処分に期待をかけていたことも、一応本件の動機となりうる。

ハ 性格、前科前歴

前掲各証拠によれば、被告人の前科は、昭和四〇年五月一九日に旭川簡易裁判所で傷害罪により罰金一万円に、同年七月九日に同裁判所で住居侵入罪により罰金二、〇〇〇円に、昭和四一年一月一七日に旭川地方裁判所で傷害、強姦致傷、監禁、同致傷罪により懲役六年に各処せられた前科があり、昭和四九年の傷害の事案はナイフで切りつけたもので、昭和四一年の監禁罪等の事案は、共犯者らと共にアベツクを襲つたもので、これら被告人の前科及び本件前後の言動等に鑑みると、被告人が本件当時も相当粗暴な傾向をもつていたことは否定できないところである。

(2) 及川の場合

イ 川崎へ行つた理由

及川が、本件当日被告人と川崎へ行つた理由については、既に認定したが、及川は覚せい剤三〇〇グラム、少なくとも一〇〇グラムは入手できると考えていたと思われ、覚せい剤の取引としては大きなもので、及川が当時覚せい剤の取引に関与し、処分先のあてもあつたことに照らすと、たとえ当日アパートの賃貸借の契約金残金を支払う必要があり、引越の予定があつたとしても、朝から早々に池袋へ戻るのが不自然に感じられる位、及川は覚せい剤を重視していたと解される。

ロ 性格等

前掲各証拠によれば、及川は昭和三九年ころ強盗致傷罪により東京地方裁判所で懲役四年以上六年以下に、昭和四〇年ころ長野地方裁判所松本支部で傷害罪により懲役五月以上一〇月以下に、昭和四七年に静岡地方裁判所沼津支部で覚せい剤取締法違反、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪により罰金三万円に各処せられており、本件後も覚せい剤事犯と拳銃発射事犯で実刑になり、昭和五三年ころにも殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反罪で逮捕されて公判中であり、若いころから「狂乱の和」と呼ばれる程で粗暴な傾向が認められるうえ、昭和四六年夏ころから覚せい剤を常用し、一日おきに一日一、二回、一回に〇・一グラム位という多量のものを注射していたことが認められ、その嗜癖は極めて強かつたと認められ、覚せい剤による影響も十分推測されうることを併せ考えると、本件当時及川も粗暴であり、本件の実行行為をしても何ら不自然ではないと評される程の動機があつたと推認することができる。

8  被告人が犯行を他人に洩らしたか否か

(1) 加瀬みよ子に対して

加瀬みよ子の昭和四七年三月二六日付司法警察員に対する供述調書によれば、本件当日の午前一〇時ころ加瀬が田辺エミ子方に行くと、一五分位して被告人が来て、加瀬に対し、被告人の友人が加瀬方に昨晩泊つたことを言わないでくれと頼み、室内をうろうろして青い顔して落ち着きがなく、「俺は死んでもよいんだ。」と言つたことが認められる。以上の事実は、一見被告人が自己が殺人の実行行為者であることを加瀬に対して自認したかのように受け取れるが、よく吟味すると、及川がその実行行為者で被告人も現場に居て何らかの形で加担したことを自認したものともとれるのである。

(2) 田辺エミ子に対して

田辺エミ子の昭和四七年三月二二日付司法警察員に対する供述調書(署名は田辺恵美子)によれば、本件当日の午後三時ころ、被告人が田辺方を訪れ、入つてくるなり「ニユースやつてない。」と言つて寒そうにおろおろとして「もう俺死ぬかも知れない。」、「俺は二組から狙われている。」等と話し、午後四時三〇分ころ「でかいことが乗つてるかも判らないから見せてくれ。」と新聞を見ていたことが認められ、前掲加瀬の調書もこれを裏付けている。この事実も、被告人が李の死亡を既に知つており、これに被告人が何らかの形で関与していることを示しているものの、被告人が殺人の実行行為者であることを自認したと評するには、なお慎重を要する。

(3) 坂田キミに対して

坂田キミの昭和四七年三月二二日付司法警察員に対する供述調書によれば、同日午前八時ころ坂田方において、被告人が来たので、青木範子が被告人に「今アパートに行つて来たが、下に二台の車が来て刑事さんらしい人が五、六人いたよ、何か悪いことをしたのじやないの。」と尋ねたところ、被告人は「整理するものがあるから二、三日会社を休むから。ただ俺も一枚かんでいる。」と言つたことが認められる。これも、被告人が殺人の実行行為者であることを自認したととれないことはないが、むしろ実行行為者以外の形で関与している旨供述したと解するのが自然な位である。

(4) 村上千恵子に対して

村上千恵子の昭和四七年三月二二日付(六枚綴のもの)司法警察員に対する供述調書によれば、本件当日午後五時四五分ころ被告人が村上方にハイネツクシヤツ、ズボンを持つて来た際、村上が「この血はどうしたの。」と聞いたところ、被告人は「やーあ、喧嘩して刺しちやつたんだ、俺一人でやつたんではない。」と薄笑いをして言つたことが認められ、この事実は被告人が殺人の実行行為者であることを窺わせると同時に、共犯者の存在をほのめかしている点に注意すべきである。

(5) 藤波士朗に対して

藤波士朗は公判廷において、昭和四七年三月二二日午前七時半ころ被告人が池袋付近の藤波のアパートへ来て、青い顔色で「やつちやつた。」と言うので、午前八時三〇分ころ池袋の喫茶店「セシボン」(午前八時三〇分から営業。)へ二人で行き、そこで被告人から「やつちやつた。」、「死んだかも知れない。」、「出てくる時に人に見られた。」、「俺がやつた。」、「夢中だつたので自分で何か所刺したか突いたかも判らない。」と聞いた旨供述しており、右供述が信用できれば、被告人が犯行の翌日に第三者に自己が犯人であることを自認した有力な証拠になるが、既に認定したように昭和四七年三月二二日午前八時五〇分ころには被告人は川崎市内の坂田キミ方におり、青木範子(午前九時ころと供述している。)や警察官にも会つていること、藤波は本件後及川に会つていない旨供述しているが、及川自身が第二一回公判で被告人に問い詰められ供述を変更して藤波と会つている旨供述していること等に照らし、藤波の右供述内容はにわかに信用し難いと言わなければならない。

(6) 石川洋子に対して

石川洋子の公判廷における供述によれば、本件当日の正午ころ、被告人が池袋のパチンコ店大番に来て石川に対し、「人をやつちやつた。」と話し、青い顔をして何かおどおどして落ち着きがなく、ぶるぶる震えているような態度であつたので、石川は被告人が人を刺したのかなと感じたことが認められる。右の供述については、被告人が人を刺したのかなと感じた部分は石川の聞いたことに対する同女の主観的評価ないし推測である点を注意すべきである。

(7) 梶原一男に対して

梶原一男は、公判廷において、昭和四七年三月二三日昼休みに被告人から梶原に電話があつたので、「お前やつたのか。」と聞いたら、被告人は「いや違う。」と答えたので及川がやつたのではないかと思つた旨供述しているが、梶原の公判廷における供述は、本件前日における被告人との強盗の相談を否定する部分等が特に信用性に乏しく、右電話に関する供述も直ちに措信し難いものである。

9  本件後の行動

(1) 被告人の場合

前掲各証拠によつて認定できる被告人の本件後の行動は、被告人が本件の殺人の実行行為者であることを裏付ける方向に強く働くものである。

即ち、被告人は、本件後、血の付着した衣類を洗濯させたり処分したりしていること、随所で何人かの者に犯行を自認するかの如き言動をとつていること、本件後落ち着かない態度で顔色も悪く、ニユースを気にしていたこと、奪取品の指輪を処分し、腕時計の処分にも関与していること、本件の翌日に坂田方で警察官に会つた際青木範子に嘘をつかせ同女の夫であつて長内一幸ではないように装つたこと、本件後、藤波、及川からそれぞれ逃走資金をもらつて姿を隠したこと等の事実は、殆ど確定的に被告人が殺人の実行行為者であると思わしめるものである。

しかしながら、本件で注意すべきことは、被告人の公判廷における供述は、被告人が本件の現場におらず全く関知しないというものではなく、被告人が本件現場に居て、李に暴行を加えたことを認め、同人の死亡の事実を知つているばかりか、被告人がその原因に関与しており、本件後被告人が全責任を負うことを及川に約束したというものであつて、被告人が公判廷で供述するような状況においても、本件後に被告人が前記のような行動をとることは充分あり得ることを念頭に置く必要がある。

(2) 及川の場合

本件後の行動については、及川の場合は被告人と比較しても異常な行動は少なかつたと認められる。勿論、既に認定したように、及川は本件兇器の登山ナイフと鞘の処分を行つており、その処分方法は慎重で徹底したものではあるが、もともと及川の所有物であつたことに鑑みれば特に不自然という程でもない。

及川は、本件当日、「美奈」で及川直美と会つた後、長谷川健一郎から三万円を小切手で借り、不動産屋にアパートの賃貸借契約金の残金を払つて契約書を作成し、丸井成増店から配送された荷物を受取つて引越をし、その後夕方から「ロマンス交差点」に出勤して平常勤務についているのであつて、この間第三者に不審感を抱かせておらず、被告人の行動と極めて対照的である。

以上の事実は、本件の殺人の実行行為者は被告人であつて、及川は本件現場には行つてないのではないかという印象を抱かせるが、覚せい剤の多量常用者が仮に数か月間不使用でも悟性、行動統制能力が知覚と分離し、恐怖感が薄れ、冷酷な性行を示すものであることは公知の事実と言つてよい程良く知られた事実であることに加え、及川の前叙のような性格等を考慮すると、被告人の下手者性を断定するにはなお慎重を要するのであつて、被告人が公判廷(第五回)で、及川が藤波に犯行状況を説明した際に、「長内のやつ、がたがた震えていて案外見掛け倒しだ。俺は出所してから刃物を使つたのは三回目だからなんともなかつた。」と供述している点もあながち無視し難いところである。

10  供述の信憑性の検討

(1) 及川の供述

イ 利害関係

及川の供述の信憑性を検討するに際して、まず念頭に置くべきことは、及川の本件との利害関係である。及川は、少なくとも本件直前まで被告人と行動を共にしており、本件兇器は及川の所有物で、事後及川が処分したことは明らかであつて、及川が本件の被疑者少なくとも共犯者として捜査段階から疑いをかけられるべき立場にあつたことは当然であつて、被告人と及川以外に本件の殺人の実行行為者と目すべき者がいない以上、被告人か及川か又はその双方が殺人の実行行為者であるという三者択一の関係にあることから、被告人とは厳しく利害が対立するのであつて、本件につき純然たる第三者とはいえないのである。

ロ 供述の一貫性と変遷

及川の供述は、捜査段階及び公判廷を通じて、及川が李方へ行つておらず、被告人と別れて池袋へ先に帰つたのであつて、及川は殺人の実行行為者ではないという点では一貫している。

しかしながら、及川の供述にはいくつかの変遷している部分があり、そのうちのある部分は記憶が薄れたりすることによるものと解されるが、供述の信憑性にも関係する重要な部分にも変遷があるので、以下検討する。

まず、捜査段階における変遷の第一点は、本件兇器の登山ナイフを被告人に貸したかどうかの点である。昭和四七年四月二八日の取調の際にはこの点を明確に否定していたが、同年五月一日の取調の際には本件兇器を被告人に貸したことを認め、本件後に返却してもらつた旨供述し、その後この供述を維持している。この点は、及川が捜査段階から一貫して真実だけを述べていたのではなく、当初は本件との関係をことごとく否定し、後に部分的に関係を認めるに至つたもので、その意味では及川の最終的な供述もなお虚偽が含まれている可能性がありうることを示している。又、右の変遷は、被告人が捜査段階において、昭和四九年四月一九日までの取調の際には本件兇器は拾つたものであると供述していたのを、同月二二日の取調から及川から借りたと供述を変更するに至つたことと関連し、後述する同房者相馬敏の介在をも窺わせるものである。

及川の捜査段階における供述の変遷は、本件兇器貸与の有無に止まらず、被告人から奪取品の腕時計を見せられたかどうか、李方前まで行く際使用した車両は被告人が持つてきたものか及川が持つてきたものか、運転したのは誰か等にも及び、いずれも兇器貸与と同じような問題点を含んでいる。

次に、捜査段階における供述の変遷のもう一つの重点は、本件直前に被告人と及川が別れた場所及びその別れ方である。及川は昭和四七年三月二八日付司法警察員に対する供述調書において、被告人と別れたのは加瀬方から一〇〇~二〇〇メートル走つたところにある丁字路のところで、被告人に東京に帰る道順を教えてもらつてそこで別れ被告人の車を運転して及川は東京に向かつた旨供述しており、前掲司法警察員作成の捜査報告書(昭和四八年一二月一一日付)によれば、加瀬方から李方前までは少なくとも一・八キロメートル以上離れていると認められることから、李方前まで行かずにそのまま別れた旨の供述となるのに対し、同年五月一日付司法警察員に対する供述調書においては、被告人を車に乗せ朝鮮人(李)の家の前あたりまで送りそこからまた一人で高速に入り池袋まで戻つた旨供述しており、別れた場所が李方前となり、その記載からみて及川はその場で待たずに直ちに帰つたという趣旨の供述になつていたのが、更に同月五日付検察官に対する供述調書においては、李方前で車を止めると、被告人が「一寸待つていてくれ。すぐ来るから。」と言つたので及川は被告人が下車してから五分たつかたたないか位待つたが被告人が来なかつたのでまた薬は駄目だろうと思い帰つた旨供述しているのであつて、これらの変遷は、及川がどの時点で被告人と行動をしなくなつたかという重大な部分に関する変遷であるうえ、被告人が昭和四九年四月一九日付司法警察員に対する供述調書で、及川を李方前で待たせたが帰つてしまつた旨供述している時期との関連も問題にせざるを得ない。

続いて、公判廷における供述の変遷を検討する。及川は公判廷において合計四回の期日に証人として供述しており、その供述は大きく崩れることはなかつたものの、軽視できない重大な変遷がいくつかある。

その第一は、同房者相馬敏の伝言の有無についてである。及川は第二回公判において、勾留中被告人からの紙片を相馬を通じて受けとつたり、被告人に応答したりしたことはないと供述していたが、相馬敏の証言の後の第二一回公判において、被告人からの質問に答え、相馬を通じて被告人からの伝言があり、及川も伝言を相馬に頼んだ旨供述するに至つた。

公判廷における変遷の第二は、本件の翌日である三月二二日に被告人と及川と会つた際に藤波が一緒にいたかどうかに関してであつて、この点については及川は第二一回公判において、被告人から質問され、藤波はいなかつたという供述から藤波もいたという供述にその場で変更しており、その際、指輪を受け取つたかどうかについても同時に供述を変え、指輪については本件奪取品でなく、店の客からもらつたものである旨急拠付け加えてはいるが、いずれにしても及川が被告人の追及にたじたじとなつて思わず真実を述べたと解する余地がある。

(2) 被告人の捜査段階の供述

イ 逮捕、自白の経緯

前掲各証拠によれば、被告人は本件の被疑者として昭和四七年四月一五日午後一一時五八分に逮捕され、同月一六日午前零時四〇分の司法警察員に対する弁解録取手続においては、「俺はその様なことをした覚えはありません。然し全然知らんということはない。」と供述し、同日の司法警察員板垣喜八の取調の際には「私は自分でやつたものではありません。顔見知りですが住所も名前も知らない三二、三才位の男に頼まれて本件当日午前九時ころ李家の前の路地の入口まで案内しただけであります。」と及川とは違う男の犯行であるかのような供述をし、同月一七日午前一〇時四〇分ころの検察官に対する弁解録取手続においては、「相手とは顔見知りでありますが、私はお読み聞けの様な事はしていません。」と供述し、同日午後二時ころからの司法警察員小泉明による取調において、初めて「実は私がやつたのです。」と自白するに至り、同日付の司法警察員佐々木幸雄の取調において、「李を殺したのは私一人でやつたことで、及川もその他の人も何の関係もありません。」旨供述し、同月一九日付からの詳細な自白調書が証拠として提出されている。

右の自白の経緯は、一般に、真犯人が当初否認していたのを、自白するに至つた場合と類似しており、逮捕からの自白の時期も遅いものではなく、その意味では極めて自然に受け入れられる内容となつている。

ただ、被告人の当初の否認の内容が、全く自己の関知しないことである旨主張しているのではなく、第三者の犯行であつて自己もそれを知悉している旨主張している点は、一般に真犯人が第三者の犯行であると主張することも往々あることではあるが、被告人の公判廷との供述の類似性を無視し得ない。

ロ 犯行状況に関する供述内容

被告人の捜査段階の供述のうち、犯行状況に関する最終的かつ詳細な供述は、昭和四七年五月一日付検察官に対する供述調書に記載されている。

右供述調書には、本件犯行状況として、要旨次のように記載されている。

被告人は、李方へ通じる路地の前の路上で及川の車から降り、「一寸行つて来るから待つていてくれ。」と言つて及川を残し、本件当日の午前八時五五分ころ李方へ行き、李に案内されて二階東側六畳間に入り、電気炬燵に入つて李の右手側に座り、先ず李に対して一〇万円の謝礼金を要求したところ、李から「今金はない。」と断わられたが、ナイフを出して脅迫するのはまだ早いと考え、「判りました。この間薬をさばく人間を紹介して話がついたら、その時一〇万円出すと言つていたけど、実は今日その人を連れて来て表に待たせていますから。」と言つて薬の話に移つたところ、李から「もう薬はない。薬はもう外の者に任せてしまつた。」と言われて口論となつたが、被告人は李が言を左右にして金をくれない魂胆だと思つて立腹し、もう李との縁を切つて開き直つてやろうと考え、炬燵から足を出して李の方に体を向けながら、「何、この親父。」と怒鳴つたところ、いきなり李から堅いもので頭部を二回殴られたのでますます立腹し、左手で李の右肩か胸付近を思い切り突いてその場に倒し、左手の平でその顔面を押えつけ、李の両足の間に被告人の右足を入れるような状態でのしかかつたところ、左親指が李の口の中に入つてしまい、強く噛まれてはずれなくなつたので、李が被告人に只働きをさせて約束を守らないことに憤慨し、李を殺害しようと決意して、ジヤンパーの右ポケツトから右手で本件兇器を取り出し、鞘はすぐ抜けたので、右手に逆手と思われる握り方で握つて指を噛まれたままの状態で李の胸部をめがけて思い切り突き刺し、更に胸部付近を一回刺したが、李から本件兇器を両手で掴まれて取り上げられそうになつたため、本件兇器から李の手が離れ、被告人は、仰向けになつている李の右手側に横向きで倒れて李と向き合うようになり、そこで李の左脇腹付近、背部を何回も思い切り突き刺し、続いて俯伏せになつた李の背部を何回か突き刺し、その後仰向けになつた李に馬乗りになつて腹部、胸部、頸部を突き刺すと、李がグツタリして動かなくなつたが、指が噛まれたまま離れないので、ナイフを畳の上に突き刺すか或は置いて、李の顎を強く押して指を抜き、その後、本件兇器をポケツトに入れて、指紋を拭いたり、室内を物色したりした。

右の供述は、極めて具体的かつ詳細であるばかりか、前掲犯行現場の状況と殆ど矛盾がなく、及川の供述に補なわれて、信用性は高いかのようである。

しかしながら、本件は、公判廷で被告人が本件現場にいなかつたと供述している事案ではなく、本件現場にいたが殺人の実行行為者は及川であると供述している事案であるため、一般に真犯人か否かを認定する際に用いる「真犯人しか知らない事実を被告人が知つているかどうか。」という基準は本件では当てはまらないのであつて、例えば「本件兇器を畳の上に突き刺した」という部分も、前掲実況見分調書の畳の刺し穴と一致するため信用できるかのようではあるが、仮に及川が本件兇器を畳に突き刺したとしても被告人はこれを見ている可能性があるのであり、それ以上に、畳の刺穴は実況見分によつて捜査官に顕著な事実であるため、捜査官の誘導の問題すら生じてくるのである。同じようなことは、本件兇器の握り方の問題についても言えるのであつて、右五月一日付検察官調書では、右手に逆手に握つていたと思う旨供述しているところ、この握り方では前叙の李の死体の創傷の刃の向きを充分合理的に説明できないが、被告人の同月六日付検察官に対する供述調書においては、当初順手に握つていたのを逆手に持ち換えた様な気がするが、どうして持ち換えたのか夢中だつたのでよく判らないと供述を変更して、創傷の方向と矛盾がないようになつている。

ハ 自白した理由

被告人が捜査段階で自白した理由については、被告人の昭和四七年四月一七日付司法警察員に対する供述調書には、「いつまで否認していてもどうせ逃げ切れる訳ではなく、今日捜査一課の小泉警部からいろいろな話を聞かされながら説得されたこともあり、さらに私自身良心というものを失つているわけではありませんので李殺人を認めたいと思うようになつた。」旨記載されている。

これに対し、被告人は公判廷において、第五回公判では、「取調のとき、小泉警部が、私が自白しないので、『被告人を逃がした坂田や藤波、青木らの証言で判然させる。そういう人間を全部逮捕する。』と言うので、私は自分は助からないのでなんとかしなくてはと思い、『一晩考えさせてくれ。明日事情を話す。』と言つて、翌日『自分ですべてをやりました。』と言つたのです。」と供述しているが、証人小泉明はこれを否定しており、被告人の捜査段階の自白の任意性を否定するような証拠はない。しかしながら、被告人が坂田や青木の逮捕を心配したという部分は、青木が坂田方で警察官に対して被告人を青木の夫であるように言つて被告人を逃がした事実に照らし、充分にありうることである。

(3) 被告人の公判廷における供述

イ 否認の時期

被告人は、昭和四七年七月四日に行なわれた第一回公判期日において、本件兇器による殺人の実行行為をしたのは及川であつて被告人ではない旨供述したが、第五回公判の被告人質問の際、第一回公判期日前に佐々木係長に横浜刑務所に来てもらい及川のことを話した旨供述し、証人佐々木幸雄も、同年五月になつてから間もなく、被告人から「是非話したいことがあるから来てくれ。」と言うので行つたところ、被告人は「事件をやつたのは被告人と及川で、直接手を下したのは及川である。」旨言つていた、と供述してこれを裏付けており、この段階から「古都」に行つたことを被告人が主張していたかどうかは判然しないが、被告人が起訴後第一回公判期日前から被告人が殺人の実行行為者であるという点を否認していたことが認められる。

ロ 犯行状況に関する供述内容

被告人の公判廷における供述においては、及川の本件犯行状況の要旨は次のとおりの内容である。

被告人は、及川と共に李方二階東側六畳間に上がり、李の右手側に被告人、左手側に及川が座つて炬燵に入り、捜査段階の供述とほぼ同じ経過で被告人と李が口論となり、被告人が「何この糞親父。」と言つたら李からライターの様なもので頭部を二回叩かれたので、李の胸を右手で突いたら李がひつくり返つたので、左手で顎のあたりを押えて右手で殴りかかつたところ、殴る前に左手親指を噛まれてしまい、はずれないため、「及川、指が噛み切られそうだから助けてくれ。」と助けを求めたところ、及川は最初は被告人の手をはずそうとしたが、いきなり及川が持つていた本件兇器で李の左手側から左脇を刺し、更に左胸付近を刺して、被告人の手がはずれてからも、及川は李に掴まれた本件兇器を振りほどいて、被告人の方を向いている李の背部を一、二回刺した。

右の供述も、具体的かつ詳細で、前掲客観的状況とよく一致し、李の受傷部位、刃の方向については、捜査段階の供述より矛盾が少なく(但し、刺突回数は公判廷の供述は少なすぎる。)、被告人の公判廷における供述のような状況も充分にあり得ることと言わなければならない。現場の状況に関して言えば、例えば乳液の瓶の落ちていた状況は、及川が李の指環をはずすために使つたという被告人の公判廷の供述の信憑性を高めるものである。

ハ 被告人の公判廷における供述態度

一般に、ある被告人が最終的に真犯人と認定された事件では、その被告人の公判廷の否認の態度は、殊更居丈高になつたり、或は悪怯れたり、そうでないにしてもあいまいな主張を繰り返し又は変転させることが多いものであるが、本件では被告人長内の否認の態度は、悪怯れた様子もなく審理開始後約七年間にわたつてほぼ一貫した供述を維持し、その供述内容も具体的な事実を呈示して真相の究明を期待するような態度であつて、重要な証人に対する被告人からの質問も事実を摘示した鋭いものとなつている。

ニ 供述の裏付け

本件審理の過程における特徴は、前叙のように及川の供述が重要な部分で変遷したのに対し、被告人は公判廷においてはほぼ一貫した供述を維持し、いくつかの重要な点について被告人の供述が裏付けられていつたことである。

証拠調の終結した段階で、平面的に対立する証拠を対比するだけでなく、審理の経過をダイナミツクに観察した場合、「古都」の従業員沢田重子の供述、裁判所の検証における池袋のパン屋、玉起屋洋品店、「古都」の各状況、同房者相馬敏による及川に対する伝言等々被告人が公判廷で供述したことが、証拠調の結果次々に裏付けられていつたと言つても過言ではない。

中でも、沢田重子の供述はこれを覆えす証拠がなく、被告人と及川が本件当日午前中に「古都」に行つたという高度の可能性を示している。

ホ 及川の身代わりとなる理由

検察官は、被告人が、さして恩義のない及川に対し、その妻が妊娠しているというだけで重大な刑責を身代わりとして負うだけの立場も理由もないから、被告人の公判廷の供述は信用できない旨主張する。

この点については、被告人は公判廷第五回において、及川も結婚したばかりなのに気の毒だと思い、原因を作つたのは自分なので殺しに関係もあり二人で行くのも一人で行くのも同じだろうと自分が責任を負つて及川を助けてやろう、そうすれば青木や坂田も逮捕されないだろう旨考えたからであると供述している。

被告人が、本件に全く無関係であるのに及川の身代わりになつたとすれば、それには検察官の主張するような相当重大な理由がなくてはならないが、後に述べるように、被告人は本件の法的責任を最終的には負う立場にあつたのであつて、被告人も李の死亡の結果について何らかの責任を負うのではないかと考えたことは充分首肯できるところであり、被告人が及川の殺人の実行行為を自分がしたものとして捜査官に供述するような状況は、ありうることである。

なお、被告人は捜査段階の自白を翻えした一つの理由として、相馬を通じて及川に自己の弁護士をつけてもらえる約束ができていたのに、及川が釈放後二回面会に来たが弁護士をつけてくれなかつたので腹が立つたことをあげているが、被告人が昭和四七年五月九日に当裁判所の弁護人選任に関する通知に対する回答で、私選弁護人を選任する旨回答していたのが、同月二七日付の書面で国選弁護人の選任を申出てきた(裁判所に顕著な事実)ことも、一応被告人の供述を裏付けている。

11  結論

刑事訴訟においては、民事訴訟における証拠優劣の原理が認められないことは多言を要しないところではあるが、仮に及川の供述、被告人の捜査段階の供述と、被告人の公判廷の供述を対比した場合、前二者の方が後者の方よりも信憑性が高いとは認められないばかりか、前二者については前叙のとおり合理的な疑いを挟まざるをえず、前二者を採つて以て被告人が本件兇器による実行行為者であると認めることはできず、また他に被告人が実行行為者であると認むべき証拠はないから、主位的訴因は採らない。

二  予備的訴因に対する判断

1  本件予備的訴因は、

「被告人は、かねて、李成漢(当時五二才)に対し、かつて同人のため債権取立等の手伝をしてやつたため、その謝礼金を要求したところ、同人から、同人の所持する覚せい剤の売却処分をしてくれたならば、その際、右謝礼金として、金一〇万円を支払うと言われていたことから、同人を脅迫して、同人から右謝礼金として金一〇万円を提供させるか、または、覚せい剤を提供させようと企て、昭和四七年三月二一日午前八時五五分ころ、刃体の長さ約一二・五センチメートルの登山ナイフをジヤンパーの右ポケツトにかくして携帯し、及川和弘とともに、川崎市川崎区藤崎町四丁目一二〇番地右李成漢方に赴き、同人方二階六畳間において、同人に対し、被告人において、右金一〇万円の提供方を要求し、次いで、覚せい剤の提供方を要求したが、同人から現金も覚せい剤もない等と断わられて、同人と口論しているうち、同日午前九時ころ、同人から頭部を殴打されたことに立腹し、いきなり同人をその場に左手で押し倒し、さらに左手で同人の顔面を押さえつけたところ、同人から左親指を噛まれたため、さらに憤慨し、右及川と共謀のうえ、所携の登山ナイフで李成漢を殺害しようと決意し、右ナイフを右手に持ち、同人の身体にのりかかる等して、その胸部、腹部、背部等を滅多突きに一〇数回にわたつて突き刺し、間もなく同所において同人を心臓刺創による失血により死亡させて殺害したものである。」

というのであり、罰条としては刑法六〇条が追加されている。

2  及川の殺人の認定

本件殺人の実行行為者が、被告人であると認定できない理由はこれまで詳細に述べたが、それでは右実行行為者が及川と認定できるかが問題となる。

本件では、及川が殺人の実行行為者であるとする直接証拠は被告人の公判廷での供述があるのみであるが、前叙のように、本件では被告人と及川の二名以外に実行行為者たるべきものは全く存在しないうえ、被告人が殺人の実行行為者であるとも認定できないところ、前述のように多数の情況証拠のほか被告人が公判廷で詳細に供述している内容が信頼できる以上、本件では及川が本件兇器による実行行為者であると推断せざるを得ない。

そこで、及川に殺意があつたのかどうかが次の検討課題となるが、及川の犯罪の主観的要素に関する及川自身の供述がもとより存在しない本件では、及川の犯行動機、犯行態様等から殺意の有無を認定せざるを得ない。

及川の本件犯行の動機は、先に触れたとおり、覚せい剤の取得と、李の被告人に対する暴行により被告人から助けを求められたことと、及川の性格等からこれを推認するしかないが、前記李の受傷状況から明らかなように、本件犯行態様は、鋭利な本件兇器により李の胸部、腹部、背部を滅多突きにしたものであつて、及川が仮に李の殺害を意欲していなかつたにしても、李の確実な死亡の結果を認容しながら執拗な実行行為に及んだものと認められ、その意味での及川の確定的殺意は充分認定できる事案である。

3  被告人の共謀、殺意の有無

次に、及川の本件殺人行為について、被告人に共謀があつたかどうか、あつたとした場合被告人に殺意があつたか否かが問題となる。

弁護人は、被告人には及川との共謀はなかつたと主張しているが、前叙のように、被告人は李と口論中、李からいきなりライターの様な固い物で頭部を二回殴打されて憤慨し、李の胸部を右手で突いたら李がその場に仰向けに倒れたので、左手でその顎の付近を押えて殴りかかつたところ、殴る前に左手親指を噛まれてしまい、はずれないため、「及川、指が噛み切られそうだから助けてくれ。」と及川に助けを求めたところ、及川は最初は被告人の手をはずそうとしたが、持つていた本件兇器で李の左手側から左脇を刺し、更に左胸部付近を刺し、被告人の手がはずれてからも、及川は李に掴まれた本件兇器を振りほどいて、李の背部等を突き刺したもので、被告人は及川が本件兇器で突き刺す前に李に暴行に及んでおり、被告人に李に対する暴行の意思があつたことは明らかであり、及川に援助を求め、及川が被告人に加勢した時点で少なくとも暴行の故意の限度で共謀が成立したことが認められる。

そこで、被告人が及川と李の殺害を共謀したか、否かが問題となるが、共謀共同正犯における共謀者に正犯性を認めうるのは、共謀者の犯行に対する意思支配力が下手者の実行行為と同価値評価を受ける場合に限られると解すべきところ(共謀者の正犯性の根拠、要件につき当裁判所昭和五一年(わ)第三二五号事件判決参照)、本件につき按ずるに、及川に殺意があり、及川は被告人の助けを求める声によつて、本件兇器で李を突き刺しており、及川が李を滅多突きにする間に被告人がこれを何ら制止しなかつたことから、被告人に殺意があつたのではないかという疑いが生ずるのである。

及川が李の死亡の結果を確実なものと認容しながら李を滅多突きにしたもので、及川にその意味での確定的殺意があつたと認められることは前述のとおりであるが、被告人がその現場にいて、及川に確定的殺意があることを、少なくとも及川が何回目かを突いている時までに認識したことは、被告人も公判廷で供述しているように、充分認定できる。

しかしながら、被告人が及川の殺意を及川の実行行為半ばで推認したことと、被告人に殺意があつたか、及川と殺害の共謀があつたか否かとは慎重に区別して考察する必要があるのであつて、本件では及川が本件兇器で李を攻撃し始めてからは、被告人が李に攻撃を加えたという証拠はなく、被告人の行動は、李に噛まれた左手親指をはずそうとする行動と、及川の犯行を傍で見ている行動だけであつて、もとより李の殺害を意欲する程被告人に李に対して憎しみがあつたと認められないこともあり、被告人が公判廷で供述するように、及川が本件兇器を持つていることを知つており、本件兇器で殺害するとは思わず、自分の左手親指をはなしてくれると思つたが、及川が本件兇器で李を滅多突きにし、これを制止すれば自分が刺されるのではないかと思つて制止できなかつたという供述内容も、あながち弁疎としてたやすく排斥し難いもので、被告人が及川の殺害行為を制止しなかつた不作為や、本件後李方屋内を及川とともに物色したこと等をもつて被告人の殺意を認定するのも無理があり、殺害の実行行為の分担をしなかつた被告人が及川の殺人の実行行為に対する意思支配力を有していたと認めるに足りる他の証拠もないから、結局被告人は暴行の故意の限度で及川と共謀したと認定せざるを得ない。

4  過剰防衛の成否

弁護人は、被告人に及川との何らかの共謀が認められるとしても、本件は李の被告人の身体に対する急迫不正の侵害行為に基因して発生した事案であり、及川は被告人の身体を防衛するため、やむなく本件所為に及んだもので、その手段、方法が相当でなく防衛の範囲を超えて行なわれたとしても過剰防衛にあたると主張するので最後にこの点に関する判断の概要を示す。

確かに、先に認定したように、本件では最初に攻撃を仕掛けたのは李であつて、被告人は李に左手親指を噛まれたため、及川に助けを求めたのではあるが、そもそも被告人が本件当日李方に行く際の心情は、李のこれまでの態度に立腹しており、李を脅迫してでも覚せい剤か謝礼金を提供させようとしたもので、被告人は前夜から藤波に兇器を借りようとしたり、及川から一度は本件兇器を借り受ける等、李に対する脅迫の意思で(潜在的な暴行の意思も含む。)李方に赴いたことは否定できないところであり、いわば最初から喧嘩腰であつて、李に左手親指を噛まれたのも、李から頭部を殴打された後、憤慨して李の胸部を突き、仰向けに倒れている李の顎付近を左手で押えて右手で殴りかかろうとした際であつて、かかる諸事情のもとでは、李の被告人に対する攻撃は侵害の急迫性の要件を欠くといわざるを得ず、過剰防衛行為の前提要件を欠くものと断ぜざるを得ない。

5  結論

以上のとおりで、本件は殺意をもつた及川と被告人が暴行の限度で共謀し、及川が実行行為を行つて李を殺害した事案と認められ、被告人は傷害致死罪の責任を負うに過ぎず、事案の真相は判示のとおりと認定せざるを得ない。

第四  累犯前科

被告人は、昭和四一年一月一七日旭川地方裁判所で、監禁、同致傷、強姦致傷、傷害各罪により懲役六年の判決の宣告を受け(同年二月一日確定)、昭和四六年一一月一七日右刑の執行を受け終わつたもので、右事実は検察事務官作成の前科調書及び右事件の判決謄本によつてこれを認める。

第五  法令の適用

被告人の判示所為は、刑法六〇条、二〇五条一項に該当するが、前記の前科があるので、同法五七条、五六条一項により同法一四条の制限内で再犯の加重をした刑期範囲内で被告人を主文第一項の刑に処し、未決勾留日数の右刑算入につき同法二一条を、訴訟費用を被告人に負担させない点につき刑事訴訟法一八一条一項但書を各適用する。

第六  量刑事情

本件は、慎重審議を重ねた結果、被告人が李に殺害行為をしたとは認められず、以上のような認定に止まつたものの、被告人は李の死亡の結果について法的責任は免れることができない事案であり、李の側にも、ある程度非難さるべき事情はあるにしても、李は一瞬のうちに生命を奪われて無念の死を遂げたもので、被告人は本件の直接の原因を作つており、被告人が実行行為者と疑われてもやむを得ない程深く関与していたと言わざるを得ず、李の死亡後も、訴因とはなつていないが屋内を物色して指環等を奪取したり、指紋を消したり逃走の準備をしたりする等手慣れており、被告人には前記累犯にかかる前科があつて、昭和四六年一月に仮出獄後一年余の犯行であることや、李に対する弁償慰謝ができていない等の事情に鑑みると、被告人の刑事責任は重いと断ぜざるを得ない。

しかしながら他面において、本件では李に死亡の結果を惹起させる行為を行つたのは被告人とは認められないこと、本件前の被告人と李との交際においても李に不誠実な態度が見られるうえ、本件直前にも先に手を出したのは李の方であつて、李にも相当落度があること、被告人は李を死亡させたことについては公判廷で哀悼の念を表しており、本件後七年以上も経過して被告人も成長していると思われること、被告人の母が被告人の出所を待ち望んでいること等被告人にとつて有利な事情も認められる。

当裁判所は、叙上諸般の情状を較量し、被告人を主文第一項の刑に処するのを相当と認めたものである。

よつて主文のとおり判決する。

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